2026 年 10 月、石川県小松市の杜氏・農口尚彦 (のぐち なおひこ) さんが、重要無形文化財「吟醸造り」の保持者に認定され、日本酒の杜氏として初めての「人間国宝」になったと、農口尚彦研究所が発表しました。重要無形文化財の制度に「生活文化」の分野が新しく設けられたことによる認定で、「吟醸造り」が重要無形文化財に指定されたのは今回が初めてです。そのため「吟醸造り」の過去の保持者はおらず、農口尚彦さんが最初の保持者です。

この記事では、今回の認定で何が決まったのか、吟醸造りとはどんな技術なのか、そして酒造りがこれまでどのように文化財として認められてきたのか (2021 年の登録無形文化財「伝統的酒造り」、2024 年のユネスコ無形文化遺産、2026 年の石川県指定) を、年表と表で整理します。農口尚彦さんの歩みと、その酒を飲める場所もまとめました。

今回の認定の要点

項目内容
指定された重要無形文化財「吟醸造り」
分野生活文化 (今回の制度見直しで新たに設けられた分野)
保持者農口尚彦 (株式会社農口尚彦研究所 杜氏、1932 年生まれ)
認定の方式個人の認定 (各個認定)。いわゆる「人間国宝」
意味日本酒の杜氏として初の人間国宝
評価されたこと吟醸造りの技術を高度に体得していること、多くの杜氏を育て技を次の世代へ伝えてきたこと
出典株式会社農口尚彦研究所の発表 (2026 年 10 月)

重要無形文化財は、これまで能楽や歌舞伎などの「芸能」と、陶芸や染織などの「工芸技術」が中心でした。研究所の発表によると、約 50 年ぶりとなる制度の見直しで、料理や酒造りのように暮らしの中で受け継がれてきた文化を対象とする「生活文化」の分野が設けられ、その中で「吟醸造り」が指定されました。文化庁の正式な答申資料は、公開され次第確認してください。

「吟醸造り」の過去の保持者はいる?

いません。重要無形文化財としての「吟醸造り」は今回新しく指定されたもので、保持者の認定も農口尚彦さんが最初です。

ただし、酒造りがこれまで文化財として認められていなかったわけではありません。違いは「誰が保持者か」と「どの制度か」です。

年名称区分認定した主体保持者
2021 年 12 月伝統的酒造り登録無形文化財 (国)文部科学大臣 (文化審議会の答申)団体:「日本の伝統的なこうじ菌を使った酒造り技術の保存会」
2024 年 12 月伝統的酒造り (Traditional knowledge and skills of sake-making with koji mold in Japan)ユネスコ無形文化遺産ユネスコ (政府間委員会)保持者の個人認定はない
2026 年 8 月日本酒杜氏石川県指定無形文化財 (県)石川県個人: 農口尚彦
2026 年 10 月吟醸造り重要無形文化財 (国)・生活文化国 (研究所の発表による)個人: 農口尚彦

ポイントは 3 つです。

  • 「伝統的酒造り」は団体の保持: 2021 年に国の登録無形文化財になった「伝統的酒造り」は、麹菌を使った日本の酒造り全体 (日本酒・焼酎・泡盛・みりんなど) の技術で、保持者は個人ではなく保存会という団体です。農口尚彦さんも 2021 年からこの保持団体の会員になっています
  • 「登録」と「指定」は別の制度: 登録無形文化財は保護の対象を広く登録する制度で、重要無形文化財の「指定」はその中でも特に重要なものを国が選ぶ制度です。人間国宝と呼ばれるのは、重要無形文化財の保持者として個人で認定された人です
  • 県指定と国指定: 2026 年 8 月の石川県指定無形文化財「日本酒杜氏」は県の制度、10 月の「吟醸造り」は国の制度です。農口尚彦さんは同じ年に県と国の両方で認定されたことになります

吟醸造りとはどんな技術か

吟醸造りは、米を高く磨き、低い温度で時間をかけて発酵させ、華やかな香りと繊細な味わいを引き出す日本酒の造り方です。研究所の発表では「手間と原料を惜しまず、味と香りを追求した吟醸酒を生み出す技術」とされ、精米と酒質の関係が見いだされ、精米機の発達とともに高度な技が確立されてきたと説明されています。工程ごとに見ると、次のような技の積み重ねです。

工程吟醸造りでのポイント詳しく
精米米の外側を大きく削り、たんぱく質や脂質を減らす。吟醸酒は精米歩合 60% 以下、大吟醸は 50% 以下精米歩合とは?
洗米・浸漬・蒸米磨いた米は水を吸いやすいため、浸漬を秒単位で管理する。外硬内軟の蒸米を目指す蒸米とは?
麹造り菌糸が米の内側へ食い込む「突き破精」の麹を造る麹とは?
酒母香りを出しやすい酵母を健全に増やす酒母とは?
醪10℃前後以下の低温で 30 日以上かけて発酵させ、吟醸香を引き出す醪とは?
上槽袋吊りなど、圧力をかけない搾り方を使うことも上槽とは?

どれも数字だけでは決まらず、その年の米の状態や醪の変化を見て判断する経験が欠かせません。研究所も「酒造りのすべてを数字で説明できるわけではない」とし、記録してきたデータと現場の感覚の両方を受け継ぐことを重視しています。吟醸酒そのものの定義やラベルの読み方は 吟醸酒とは? と 大吟醸とは? を参照してください。

吟醸酒が「鑑評会の酒」から「飲まれる酒」になるまで

吟醸酒は長く、全国新酒鑑評会などに出品するための特別な酒で、一般の店にはほとんど並びませんでした。研究所の発表によると、農口尚彦さんは昭和 40 年代から吟醸酒を市販して評判を呼び、昭和 50 年代以降の吟醸酒ブームを牽引した一人とされています。いま私たちが酒販店で当たり前に吟醸酒を選べるのは、こうした造り手たちが「鑑評会の技術」を「飲み手に届く酒」にしてきた結果でもあります。

農口尚彦さんの歩み

年出来事
1932 年石川県珠洲郡木郎村 (現・能登町) に、杜氏の家の子として生まれる
1949 年静岡の蔵で酒造りの道に入る (16 歳ごろ)
1961〜1998 年菊姫 (石川県白山市) で杜氏を務める。山廃仕込みを現代に受け継ぎ、吟醸酒の市販に取り組む
1967 年全国新酒鑑評会で初の金賞。以降、通算 26 回の金賞 (研究所の発表による)
1998〜2012 年鹿野酒造 (石川県加賀市、常きげん) で杜氏を務める
2006 年卓越した技能者 (現代の名工)
2008 年黄綬褒章 (能登杜氏組合の組合長として)
2013〜2015 年農口酒造 (石川県能美市) で杜氏を務める
2017 年〜小松市観音下町の農口尚彦研究所で杜氏を務める
2021 年〜登録無形文化財「伝統的酒造り」の保持団体の会員
2023 年文化庁長官表彰
2026 年 8 月石川県指定無形文化財「日本酒杜氏」の保持者に
2026 年 10 月重要無形文化財「吟醸造り」の保持者 (人間国宝) に

金賞の回数は資料によって「通算 27 回」とするものもあります。この記事では研究所の最新の発表の数字を載せています。

能登杜氏と山廃

農口尚彦さんは、石川県の能登半島を拠点とする杜氏集団「能登杜氏」の流れをくむ杜氏です。能登杜氏は南部杜氏・越後杜氏・丹波杜氏と並んで名が挙がることの多い杜氏集団で、濃醇な旨味の酒造りで知られます。→ 日本三大杜氏とは? / 杜氏とは?

また、衰退しつつあった「山廃仕込み」の技術を受け継ぎ、高品質な山廃酒を世に送り出したことも、農口尚彦さんの大きな功績とされます。菊姫や常きげんの山廃は、いまも山廃の代表として名前が挙がります。→ 山廃とは?

研究所での取り組み

2017 年に設立された農口尚彦研究所では、農口尚彦さんが長年記録してきた酒造りのデータを保存・分析し、現代の醸造データと照らし合わせながら酒を造っています。蔵人の育成にも力を入れ、技術を「そのまま保存する」のではなく、時代に合わせて磨きながら引き継ぐことを掲げています。低温で貯蔵して熟成させる取り組みも行っており、時間を重ねた日本酒を味わう文化を提案しています。→ 古酒・熟成酒とは?

酒造りが文化財になった意味

酒造りは、日本の食文化と季節の行事、地域の暮らしと結びついて受け継がれてきた技術です。2021 年の登録無形文化財、2024 年のユネスコ無形文化遺産は、その「酒造り全体」を文化として守る仕組みでした。今回の重要無形文化財「吟醸造り」は、そこから一歩進んで、特定の技術を極めた個人を国が認めたものです。

飲み手にとっての意味は、次のように整理できます。

  • 吟醸酒は、技術の結晶である: 店で当たり前に買える吟醸酒の一本一本に、精米・麹・発酵・搾りの技が詰まっています
  • 杜氏という仕事に光が当たる: 酒の名前は知っていても、造った人の名前を知る機会は多くありませんでした
  • 継承が課題として見えるようになる: 杜氏・蔵人の高齢化と担い手不足は、酒造りの現場の大きな課題です。認定は、技を次の世代へ渡す取り組みが評価されたものでもあります → 蔵人とは?

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農口尚彦さんの酒を飲むには

方法内容
銘柄「農口尚彦研究所」(株式会社農口尚彦研究所・石川県小松市観音下町)
酒販店で探す地酒専門店や百貨店で取り扱いがある。限定品は入荷が少ないことも
飲める店を探すSAKE SPOT で農口尚彦研究所を登録している店を探す。お店が登録した情報なので、提供の有無は来店前に確認してください
日本酒検索農口尚彦研究所を日本酒検索で探す
かつて杜氏を務めた蔵菊姫 (石川県白山市)、常きげん (鹿野酒造・石川県加賀市)。どちらも石川を代表する蔵 → 石川県の日本酒ガイド

研究所の発表によると、農口尚彦研究所の日本酒は世界 30 以上の国と地域で飲まれており、2018 年から ANA 国際線の機内提供酒に採用されています。認定の発表後は入手しにくくなる可能性があるので、正規の取扱店から購入し、相場より大幅に高い転売品には注意してください。→ 入手困難な日本酒の買い方

吟醸造りの違いを舌で知りたいなら、同じ蔵の純米酒と純米吟醸、純米大吟醸を飲み比べるのが近道です。→ 純米酒・純米吟醸・純米大吟醸の違い

よくある質問

吟醸造りの人間国宝は誰ですか?

石川県小松市の農口尚彦研究所の杜氏、農口尚彦さんです。2026 年 10 月、重要無形文化財「吟醸造り」の保持者に認定されたと研究所が発表しました。

吟醸造りの過去の保持者はいますか?

いません。「吟醸造り」が重要無形文化財に指定されたのは今回が初めてで、保持者も農口尚彦さんが最初です。

日本酒の杜氏で人間国宝になった人はほかにいますか?

研究所の発表によると、日本酒の杜氏としては農口尚彦さんが初めての人間国宝です。

「伝統的酒造り」との違いは?

「伝統的酒造り」は 2021 年に国の登録無形文化財になり、2024 年にユネスコ無形文化遺産に登録された、麹菌を使った日本の酒造り全体の技術です。保持者は団体です。「吟醸造り」は重要無形文化財として指定された技術で、保持者は個人 (農口尚彦さん) です。

石川県の「日本酒杜氏」とは何ですか?

2026 年 8 月に石川県が指定した県の無形文化財で、農口尚彦さんがその保持者に認定されました。国の重要無形文化財とは別の、県の制度です。

吟醸造りの酒はどれですか?

吟醸酒・大吟醸酒・純米吟醸酒・純米大吟醸酒が、吟醸造りで造られる日本酒です。ラベルの特定名称で見分けられます。→ 吟醸酒とは?

農口尚彦研究所の日本酒はどこで買えますか?

地酒専門店や百貨店などの取扱店で購入できます。研究所の公式サイトで取扱店を確認するのが確実です。20 歳未満の飲酒は法律で禁止されています。

出典・参考

  • 株式会社農口尚彦研究所「杜氏・農口尚彦が重要無形文化財『吟醸造り』の保持者に認定」(2026 年 10 月の発表)
  • 農口尚彦研究所 公式サイト (石川県指定無形文化財「日本酒杜氏」の保持者認定について)
  • 文化庁「文化審議会の答申 (登録無形文化財の登録及び保持団体の認定) について」
  • 国税庁「伝統的酒造り」に関する資料
  • 小松市「酒造りは、文化になる。農口尚彦杜氏が守り、磨き続けてきた『日本酒造りの技』」

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まとめ

重要無形文化財「吟醸造り」は 2026 年 10 月に初めて指定され、その最初の保持者が農口尚彦さんです。過去の保持者はいません。それ以前の酒造りの文化財は、2021 年の登録無形文化財「伝統的酒造り」(保持者は団体)、2024 年のユネスコ無形文化遺産、2026 年 8 月の石川県指定「日本酒杜氏」でした。精米・麹・低温発酵・搾りの技を積み重ねた吟醸酒は、店で手に取れる一本の中に、杜氏の 70 年以上の仕事が詰まった酒でもあります。