見学の最初の質問は「今日、納豆を食べてきていませんか」だった。1772年(安永元年)創業、岩手最古といわれる菊の司酒造は、令和4年に盛岡市内の旧蔵から雫石町の新工場へ移転した。浸漬は秒単位、分析は毎日、搾ったら即瓶詰め、火入れはあえて非効率な瓶燗63度──製造わずか7人で回る現場には、「空気に触れさせない」という設計思想が隅々まで貫かれていた。旅行会社経由の団体しか入れない蔵の中を、特別に見学した記録。

「今日、納豆を食べてきていませんか」──見学は、この質問から始まる

蔵に入る前、案内スタッフから真顔で確認された。「一応毎回確認しているんですが──今日、納豆は食べてきていませんか」

決して冗談で言っているのではない。納豆菌は非常に強い菌で、日本酒造りに欠かせない麹菌や酵母に勝ってしまう。麹室で納豆菌が繁殖すれば、しばらく酒造りができなくなるほどの事故になる。だから日本酒の蔵では「当日の納豆NG」が一般的なのだという。事前にアナウンスしても食べてきてしまう見学客はいて、その場合は申し訳ないが中に入れず待っていてもらう──それほど、菌の管理は徹底されている。

白衣と帽子を着け、ホコリを飛ばすエアシャワーの部屋を通って、ようやく蔵の中へ。この時点で分かる。ここは、見せるための施設ではなく、菌と酒質を守るための工場だ。

白衣と帽子を着け、エアシャワーの部屋を通って蔵の中へ
白衣と帽子を着け、エアシャワーの部屋を通って蔵の中へ
麹室には見学者は入れないため、「麹」のパネルで解説してくれる
麹室には見学者は入れないため、「麹」のパネルで解説してくれる

ちなみに麹を育てる麹室は、温度40度・湿度25〜50%の「サウナのような」木の部屋だ。木は湿度を自動で調節してくれる。一方で、雑菌対策を優先して全面ステンレスにする蔵もあり、どちらを取るかは蔵の考え方だという。高温多湿は麹菌にとって最高の環境だが、納豆菌のような強い雑菌にとっても同じこと。だからこそ、入り口のあの質問が効いてくる。

岩手最古・1772年創業の蔵が、令和4年に建てた新工場──盛岡から雫石へ

菊の司酒造の創業は1772年(安永元年)。岩手県では最古といわれる酒蔵だ。「菊の司」「七福神」という2つの銘柄を、250年以上にわたって造り続けてきた。

その蔵が令和4年、盛岡市紺屋町の旧蔵から、岩手山を望む雫石町の新工場へ移転した。築4年の蔵は、古い酒蔵のイメージとはまるで違う。旧蔵で人の手に頼っていた工程の多くが機械化され、米を運ぶのはベルトコンベヤーとホースの風圧。かつて1日1000キロの米を人が担いで階段を上り下りしていた作業が、いまは少人数で回る。

釜場。1回で1000キロの米を蒸せる釜が据えられている
釜場。1回で1000キロの米を蒸せる釜が据えられている
「蒸米」のパネル。103度の蒸気で1時間、米を蒸す
「蒸米」のパネル。103度の蒸気で1時間、米を蒸す
蒸し上がった米を、用途ごとの温度まで冷ます放冷機
蒸し上がった米を、用途ごとの温度まで冷ます放冷機
新工場の蔵内に立つ大型タンク
新工場の蔵内に立つ大型タンク

その人数に驚いた。米を洗うところから搾りまで、製造はわずか7人。杜氏は一昨年に就任した32歳の女性で、この若いチームが岩手最古の暖簾を背負っている。

浸漬は秒単位、分析は毎日──データと味見の両方で造る

機械化イコール手抜きではない。むしろ逆で、人の感覚が要る部分には徹底的にデータを重ねていた。

象徴的なのが米の浸漬(しんせき)だ。洗った米に水を吸わせる工程で、杜氏から「30%吸わせる」「29%」と指示が出る。狙った吸水率に一発で当てるため、漬ける時間は「5分30秒」「45秒」と秒単位。米の品種、精米歩合、その年の出来、農家ごとの違い、水温──条件は毎回変わるから、過去のデータと照合しながら、その日の秒数を決める。何度も出し入れすると糠の香りが移るので、やり直しは利かない。

「毎年、同じ品種でも米の出来が違うんです。漬けている間も米の様子をすくって見て、早めに上げるか判断する。ここは経験によるところがあって、なかなか機械化できません」

「米蔵」のパネルを手に、案内は米の保管から始まる
「米蔵」のパネルを手に、案内は米の保管から始まる
「洗米」のパネルを手に、秒単位の浸漬管理を解説してくれた案内スタッフ
「洗米」のパネルを手に、秒単位の浸漬管理を解説してくれた案内スタッフ

もろみの管理も同じだ。発酵中のもろみは毎日サンプルを採り、ろ過して、アルコール度数・日本酒度・酸・アミノ酸を分析室で測る。数値を見て、さらに杜氏が毎日味見をして、温度の指示を出す。分析だけでも、感覚だけでもない。「データである程度均質化できるようにしたい」という方針が、蔵全体に行き渡っていた。

データへのこだわりは、タンクそのものにまで及ぶ。並んでいるタンクの容量が「5,400」「2,800」と中途半端なのは、同じ規格のタンクでも1本ずつ個体差があり、実際に何リットル入るかを測って(検定して)あるからだ。同じ目盛りでも、タンクが違えば中身の量は違う。その前提から管理が始まっている。

面白かったのは、案内スタッフの神様の話だ。酒蔵には昔から神棚があり、いまも酒ができるたびに手を合わせる。「今はパソコンとデータも、一種の神様です。ただ、あっちの神様にもちゃんと頼んでおかないと」。データと神頼みの使い分け──これが今の酒造りのリアルなのだと思う。

タンクごとの温度を設定できる、サーマルタンクの管理パネル
タンクごとの温度を設定できる、サーマルタンクの管理パネル
毎日のサンプルを測る分析室。アルコール度数・日本酒度・酸などをここで計測する
毎日のサンプルを測る分析室。アルコール度数・日本酒度・酸などをここで計測する

空気に触れさせない──搾ったら即瓶詰め、液面充填、あえて非効率な瓶燗63度

この蔵の設計思想を一言でいえば、「酒を空気に触れさせない」だ。建物自体が、搾りの部屋と瓶詰めの部屋が隣り合うよう設計されていて、酒の移動距離が最小限になっている。

搾った酒はタンクで長期保存せず、すぐに瓶詰めする。瓶詰め機も、注ぎ口が瓶の底まで下がり、液面と一緒に上がってくる「液面充填」で、酒が空気に触れる瞬間を極力減らす。

「製品化」のパネルと瓶詰めライン。搾りの部屋のすぐ隣で、搾った酒をそのまま瓶に詰める
「製品化」のパネルと瓶詰めライン。搾りの部屋のすぐ隣で、搾った酒をそのまま瓶に詰める
瓶詰めの部屋。充填のラインが並ぶ
瓶詰めの部屋。充填のラインが並ぶ

火入れ(低温殺菌)はさらに徹底している。瓶に詰めたままP箱ごとお湯のプールに並べ、63度まで上げて冷ます「瓶燗火入れ」。1回に1時間かかり、量も限られる。「正直、効率は悪いです」と案内スタッフも認める。タンクやホースの中で加熱する効率的な方法もあるのに、鑑評会出品酒だけでなく通常の商品までこの方法を選ぶのは、酸素に触れる時間を1秒でも短くしたいからだ。

P箱に入った瓶。火入れはこの箱ごと、63度のお湯のプールに沈める
P箱に入った瓶。火入れはこの箱ごと、63度のお湯のプールに沈める

生酒は、マイナス8度前後(設定はマイナス10度)の冷凍庫で保管する。日本酒はアルコール15%前後なら、この温度でも凍らない。凍らないギリギリの低温で、フレッシュさを止めておくのだ。

色分けされた道具と「ジョバンニの調べ」──酵母を守る現場の工夫

酒母室では、タンクも混ぜ棒もボウルも、酵母ごとにテープで色分けされていた。複数の酵母を同時に育てる蔵では、道具を介して酵母が混ざるのが一番怖い。だから「この色の酵母には、この色の道具」と物理的に分けてしまう。

「酒母」のパネル。酵母を増やす、日本酒のスターターだ
「酒母」のパネル。酵母を増やす、日本酒のスターターだ
酒母室のタンク。壁には松尾様のお守りが貼られている
酒母室のタンク。壁には松尾様のお守りが貼られている
酒母室の道具類。酵母が混ざらないよう、酵母ごとに使う道具を分けている
酒母室の道具類。酵母が混ざらないよう、酵母ごとに使う道具を分けている

その色分けのラベルに、面白い名前を見つけた。「ジョバンニ」。岩手県が独自に開発した酵母「ジョバンニの調べ」だ。名前は公募で決まったもので、由来はおそらく岩手が生んだ宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。ほかに「ゆうこの想い」という岩手酵母もあるという。酵母の名前にまで、土地の物語が染み込んでいる。

安全管理も印象的だった。もろみのタンクを上からのぞく通路には必ず柵がある。発酵中のタンクは二酸化炭素が充満していて、落ちたら泳げても息ができない。「うちでは柵を絶対につけなさいと、口を酸っぱくして言われています」。タンク内部を洗う作業には酸欠作業の資格まで必要だという。伝統産業である以前に、まっとうな製造業なのだ。

「醪(もろみ)」のパネル。低温で約30日かけて発酵させる
「醪(もろみ)」のパネル。低温で約30日かけて発酵させる
板張りの床に並ぶもろみタンク。通路には必ず柵をつけて作業する
板張りの床に並ぶもろみタンク。通路には必ず柵をつけて作業する
発酵中のもろみ。タンクの口には転落防止の網が掛かる
発酵中のもろみ。タンクの口には転落防止の網が掛かる

酒粕は酪農家とケーキ屋とジェラート屋へ──雫石の中で回る循環

搾りの部屋では、搾り機の板に付いた酒粕を、人の手で一枚一枚剥がす。この酒粕の行き先がいい。雫石町内の酪農家が飼料として引き取りに来て、近くのケーキ屋は酒粕のケーキを焼き、「松ぼっくり」というジェラート屋では菊の司の酒を使ったジェラートが冬季限定で並ぶ。蔵の副産物が、町の中で一周して戻ってくる。

お酒を搾る圧搾機。板についた酒粕は、人の手で一枚ずつ剥がす
お酒を搾る圧搾機。板についた酒粕は、人の手で一枚ずつ剥がす
袋詰めされて、引き取りを待つ酒粕
袋詰めされて、引き取りを待つ酒粕

移転からわずか4年で、蔵は地域の循環に組み込まれていた。盛岡から来た最古の蔵は、雫石の蔵になりつつある。

七福神 超辛口とInnocent──試飲で分かった、この蔵の幅

見学の最後に売店で試飲をさせてもらった。印象に残った銘柄をいくつか。

  • 七福神 超辛口──岩手の酒米の最高品種「結の香」60%精米。蔵で一番辛い酒だが、鋭さで切るタイプではなく、旨みを残したままスッと引く辛口
  • Innocent(イノセント)──精米歩合60・50・40の3グレードがある生酒シリーズ。フレッシュで華やかな甘口で、瓶燗と冷凍保管の思想が最も分かりやすく味に出ている
  • 雫石産「銀河のしずく」の限定酒──雫石町内の米農家が育てた食用米で仕込んだ、蔵でしか買えない辛口
蔵に併設された売店。限定酒の試飲もここで
蔵に併設された売店。限定酒の試飲もここで

エンタメに振り切った蔵見学(同じ旅で訪ねた南部美人の記事)の翌日にこの蔵を見たからこそ、対比が鮮やかだった。見せるための仕掛けはほとんどない。その代わり、データと手仕事と設計思想が、静かに積み上がっている。どちらが正しいという話ではない。岩手の酒の幅は、こんなに広い。

なお、菊の司酒造の見学は旅行会社や団体経由のみの受け付けで、個人の飛び込みはできない。今回は、連載「地元の人に、旅を任せてみた。」の案内人・南部美人の久慈浩介さんの行程に組み込まれて実現した特別な見学だった。旅の全体は本編記事「南部美人・久慈社長に、岩手の2日間を任せてみた」でどうぞ。

菊の司酒造の基本情報・口コミは菊の司酒造の酒蔵ページへ。自分に合う日本酒のタイプはSKNM診断(無料・3分)で探せます。毎月新しい蔵と出会いたい方はSIPORYサブスクもどうぞ。